アジア南太平洋友好協会のあゆみ

社団法人 アジア南太平洋友好協会の創設

本会刊行「平和への道」2000年8月15日刊行

河野太通会長老師 巻頭の言葉より

去る或日、神戸に住まう西垣匡という青年が、無文老大師を祥福寺に訪ねてきた。 彼は父が戦死したニューギニアに渡って、心ゆくまで父の想い出にふけりたいというの が、幼い頃からの悲願であった。彼は石鹸製造用の椰子油を運ぶ貨物船に乗って彼の地にわた り、僅かな手がかりを頼りに父君終焉の地を探した。それは三ヶ月にも及んだが、奇蹟的 にも父君を埋葬した現地人に出会い、御遺骨を故国に迎えることが出来たのであった。

しかし、しかし探索の日々にジャングルや各所で目にしたのは、放置されたまま散乱す る日本将兵の多くの遺骨や遺品であった。父のみならず異国に散って未だに故国に迎え れぬ将兵の供養を思い立ち、神戸で四トンの御影石を求めた。これを現地に運んで慰霊 碑を建てたい。ついてはその碑文を老大師に書いていただきたいということであった。

老大師は、心よく引き受けられたが、ただ建てるだけでは慰霊供養にはならぬ。私がい こう。ということで佐野大義和尚はじめ志を同じくする遺族、戦友たち十名が同行された のである。日本は高度経済成長期に入り、ようやく海外旅行も盛んになりつつあったが、 ニューギニアは、多くの日本人にとっては、全く未知の国であって、旅行者すら手探りの 計画であった。老大師は七十歳であられた。

翌年、昭和45年(1970)8月11日、外務省認可の社団法人南太平洋友好協会 が設立され、その八月末に総勢百十九名が、東部ニューギニア、ソロモンに渡ったこと は、未だに忘れ難き感動の想い出となっている。

以来五十回以上に及ぶ戦跡慰霊行が行われ、その足跡は太平洋戦争の戦場と化したほと んど全域に及んでいる。―中略―

無文老大師は、靖国神社国家護持反対に賛同されなかった。このことをもって老大師を 戦争容認者とするのは誤りである。老大師の慰霊行は、かつて、その師、精拙老師に随行 して、中国の戦地将兵を慰問激励されたことへの反省からであったことを思わなければな らない。―中略―

今日、日本がまがりなりにも繁栄しているとするなれば、その繁栄は、日本人だけでも 二百万人に及ぶ犠牲なくしてはあり得なかったのであるが、人の生命を犠牲にすることに よって、自らの幸いを手にするようなことがあってはならないことを、これも改めて思う のである。

以上の会長老師の言から協会設立の初因縁が解るのである。

協会専務理事であった佐野大義和尚 回想録

法輪寺での暁天講座での講演より抄録

花園大学総務部長に就任して、日々激化してく学生運動や大学の運営について毎日の 如く無文老大師のもとへ、霊雲院、時には神戸の祥福僧堂へ、老師の在住される時間、 それこそ夜うち朝がけで相見しており、たまたま霊雲院開山の初月忌があった昭和四十 四年一月に老大師よりニューギニア慰霊の話を聞き、即座に同行することを決めたもの の、大学のこと、自坊のことなど長期に不在となることを関係各位に承諾をもとめた。

ある総代さんから、「ニューギニアは、恐ろしく未開の地で、伝染病やマラリアにでもな ったら和尚どうしますねん」と反対されたものだ。

また、当時渡航費用が五十万円を超す、今でも大金ですが、当時大層な金額でありました が、銭金ではない、ただただ、無文老師の菩薩行と、自ら戦地にいた経験からここで行か ずして何となさん。との思いでありました。

当時の同行された方々の手記は、「戦跡を訪ねて」に詳述されているところである。 実際現地に行ってみると、食事も口にあいませんし、ホテルも無く、風呂もなく、まとわ りつくような暑さでありました。 無文老師は、追悼香語で、花咲き鳥笑う真の楽園、と唱えられ、帰国されてからも、講演でニューギニアの素晴らしさを語られました。これ は、戦死で肉親を亡くされた遺族を思うての慈悲心であったと、今も涙がでる思いです。

折しも、大阪千里で万国博覧会が開催され、世界の国々も身近になったとはいえ、一 般庶民が海外旅行するということは、まだまだ難しいことであった。対米ドールレート は、360円であった、日本でコカコーラ数十円が、海外では、360円するのである。

また、ニューギニアといっても当時の旅行社は、「どうやって、どこで乗り継いで」とい うルートすら持ち合わせていなかったのである。我々が無文老師に同行して帰国してよ り、新聞各社の報道により、全国の遺族から無文老師のもとや私たちに手紙や問い合わせがき た。ある戦死者の母親からは、お米が送られてきて「戦死した息子に食べさせてやりた い、荷物になりますが持っていってやってください」との手紙が添えれており、老師も涙 を流されました。

その一つ一つには、息子を親を兄弟を戦死で亡くされた心情が切々と綴られており、この ことがきっかけとなり、翌年、ニューギニアで父を亡くされた遺児に全国募集したところ 数百人から問い合わせ応募があり、出来れば希望される方々全員に彼の地へ行かせたか ったが、どうしてもクリアできなかったことが、高額な渡航費である。

無文老師篤信の皆 様や、戦没者遺族の方々からの寄付金も相当数頂戴したが、まだ足らないのである。自己 負担金を強いるのも、まだ若い遺児には気の毒なことであった。それでも百名を越す大慰 霊団を派遣したことが、協会設立の原動力となった。

政府による遺骨収拾は、厚生省援護局によって国の事業として行われてきたが、民間人 が、関わることは難しいものであった。

しかし、それまで戦後の復興であけくれた時代から、ようやく高度成長の時代になり、 各家庭も幾分の余裕が出来た頃、肉親を戦死で亡くされた遺族から、最後の地へなんとか 連れていって欲しい、無文老師に供養をお願いしたという遺族方からの声が全国から寄せ られ、とりわけ無文老師が各地で講演され、戦没者追悼の精神、真心、それは、「戦死者 の遺骨を拾うことは可能かもしれないが、流した血肉、無念の涙、望郷の思いを拾うこと は不可能なことだ、今も戦地では、我々肉親同胞が眠っている。この南洋の島、国は、肉 親のお墓、霊地であろう。

そして戦禍を蒙り家を焼かれ、肉親を失った原住民の方々に謝 罪をして、心からお詫びして、その島々や国の民族のため、平和と繁栄がもたらせるよう な友好親善の和を広げることこそ戦没者への真の供養であろう。」との尊い御教えが全国 民の心を動かしていった。

無文老師は、不惜身命、東奔西走して各地で講演をなされ墨跡での浄財を戦跡各地への 友好親善の為に捧げられ、篤信の方々からの支援援助を受けるには、法人格がどうしても 不可欠であった。当時代議士の方々や日本をリードする大企業の重役方も戦争体験をお持 ちの方が多く、とりわけ玉置一徳代議士がソロモンから帰還された出征経験から、社団法 人格の取得に奔走された。しかし法人格取得については、筆舌に尽くしがたい困難があ った。

今のように通信手段がないなか、何度も何度も霞ヶ関の関係省庁に出向き、何度も何度 も申請書類を書き直し、京都と東京を往復したものだ。そうしてやっと昭和45年8月に 社団法人南太平洋友好協会の設立をみたのです。

爾来今日まで、戦跡を訪ねての慰霊を、五十回以上行ってきました。

世界中で今もなお、戦火が絶えることはありません。その戦火で最も悲しい思いをす るのは誰でしょう、日本は、わずか五十年前に、この悲劇惨劇を体験してきた国です。

人が人を殺戮するようなことが二度とあってはならない。 人の心を失うような行いを、しない、させない、人間尊重、人権尊重、この精神を私は、若い人たちに説き続けたいので す。不戦の誓い、平和への道、これこそが社団法人南太平洋友好協会の心、日本国民の心 であることに、思いを新にするのです。