終戦70年 我が子たちへのメッセージ 専務理事 青木正道和尚

お父さんがお母さんと出会った経緯を話そうと思う。結婚したのは今から約四十年前のことだが、お母さんのお父さんはお母さんの赤ちゃんの時にビルマに従軍して戦没された。戦争は一九四五年八月に終わって、生きのびられたが帰国するまでの収容所で発病して亡くなられた。

 お父さんが初めてお母さんと出会ったのは戦争が終わって二十八年後(一九七三年)。ようやく日本も復興して外国へ行けるようになり、戦没者の遺族である父母や兄妹・子供達が戦死した現地に臨む機会が訪れてきた。といってもその当時のビルマ渡航旅費は一人二十八万円の経費を要し、平均月収十五万円の当時には安からぬ額であったが、協会の集めた資金で個人負担は十万円で済まされた。     

ビルマ方面の日本兵戦死者は十八万五千人ですが、その殆どが終戦前の二年間に失われている。

 協会にとってはこの時が初めてのビルマ慰霊行であったが、その前に五回の海外慰霊に出掛けている。初めては東ニューギニアの慰霊であった。その動機となったのは神戸在住の西垣ワタルという遺児が仕事の関係で父の戦死したニューギニアに行って遺骨を拾ったことが奇縁となり、現地に慰霊碑を建立する悲願を興し、その碑の揮毫を同じ神戸の僧堂に居られた山田無文老師に依頼した。老師は「碑を建てても魂を入れねば」と申され、同行して開眼供養される決意をされ、現地に行かれることになった(一九六九年二月)

その折は西垣青年の他ダルマ寺の佐野大義和尚はじめ一行十一名で、東ニューギニアの首都ポートモレスビーから八百キロ離れたウエワクのウイリー丘の開眼式に臨まれた。

 その折に書きとどめられた無文老師の記録に【収集した遺骨を英霊碑に納め、ご遺族から託された手紙や写真や短冊や、お茶やお菓子やお米やお酒など、なつかしい故郷のみやげを数々供え、ヒックス知事、アークフェルド神父始め、現地の旧軍人など、多数来賓も出席されて花輪がたくさん贈られ、おごそかに、しかも盛大に碑の開眼と慰雲法要を行なわせていただいた。日本の将兵のみならず敵味方共にこの大戦争に命を捧げられた英霊を弔うと記した英文の碑銘が大へん好感を呼んだようである。

 ご遺族からの手紙の中に、ある未亡人は「あなたが出征されるとき赤子であった娘が、こんなに成人しました。この結婚式の晴れの姿、どうか喜んで見てやって下さい」とあるではないか。ある英霊の老いたる母は封筒に入れた米を託されて、息子の最後の手紙に「腹いっぱい米の飯を食べて死にたい」とあったが、どうかこれを息子に届けてほしいと訴えられたではないか。

 これらの手紙をいちいち読んで霊前に供えたが、涙なしに読まれようか。日本にはまだ戦争の傷手に悩んでおられる人たちが、いかにたくさんおられるかを知らされて、わたしは胸がいたまずにはいられない。そのような戦争の被害者が、世界中には何千万人いられることであろう。

 戦争ほど悪いものはない。戦争ほど痛ましいものはない。戦争ほど残忍なものはない。再び戦争すまじきことを、英霊に誓い、若い世代によく教えておく責任が、われわれおとなたちにあるのではなかろうか。

 若い学生諸君に、わたくしは訴えたい。社会の改造を必死に求めている君たちの気持ちはよくわかる。もし世界中の学生諸君が、その偉大なるスチューデントーパワーを団結して、先ず第一に『再び戦争をしないこと』を決議したらどうであろう。社会の改造はそれからでもおそくはあるまい。】

この老師のお気持ちが、老師をして慰霊団を発足されることになった。多くの支援を得てより沢山の遺族達を現地におつれしようとして、南太平洋友好協会設立のために無文老師と事務局のダルマ寺和尚が、中心になり外務省・厚生省など各方面に陳情された結果、外務省認可の南太平洋友好協会が発足した。

 その翌年(一九七〇年)には自転車振興協会の補助や松下電器産業・川崎重工・川崎製鉄など多くの企業の方々から賛同いただき、総経費三千五百万円が寄せられて、無文老師他九名の僧侶と遺族・戦友・医師など百九名で再び、東ニューギニアとソロモン諸島へ戦後最大の組織の慰霊団で臨まれた。

 その翌年(一九七一年)二月、冬休み中にサイパン島に留まって遺骨収集をしていた花園大学の学生達が集めた数千の遺骨の山が荼毘にされると聴き、法要を営むために初めてのサイパン島慰霊の旅となった お父さんはこの時初めて無文老師のお供をして、協会のお仕事に携わった。これがまた自分にとって初めての外国行きともなった。

 その翌年にお母さんが往くことになるビルマ慰霊となるのだが、未だ前例のないビルマに大勢の遺族を引率するのには、現地の内容を知り、塔婆の準備なども現地で用意しておかねばならないので、事前調査に臨む必要があった。その役を引き受けたのが、お前たちもよく知っている、後年花園大学学長になられ後に妙心寺管長になられた河野太通老師と花園高校の校長になられ、ビルマのお坊さんになりビルマ語も話せた田口道悦先生の三人が選ばれた。この時は出来ればインドのインパールにも慰霊に行く計画があったので、その可能性の調査を兼ねてインドにも行くことになった。

 この折お父さんは失恋の痛手を負い、出来ればビルマに留まってビルマのお坊さんになるつもりで出掛けたのだが それは滞在ビザがとれなかったので結局果たせなかった。

 事前調査をして帰国、一ヶ月後の翌年の二月に、再度お母さんを含む遺族達三十四名を引率してビルマ慰霊と隣国インドのお釈迦様の仏跡を訪ねた。

 当時の飛行機は小さいゼット機で通路の両サイドが二人掛けになっていたが自分たち二人が隣り合った席に着いた。長い時間の機中でいろいろ話したが、私がこの慰霊に参加された理由を訊いたときに、お母さんは「父の死んだところを見たいから」と言ったので、私は「自分の意志で行くと思っているのでしょうが、きっとお父さんが呼び寄せておられるに違いない」と答えた。タイ国のバンコックで一泊して翌日にビルマの首都ラングーン(現在のヤンゴン)へ着き、その夜はインヤレイクホテルに投宿した。大きい湖の辺りのホテルで、お母さんは松田さんという厚生省に勤めるおばさんと同室した。その時のでき事をお母さんは帰国後の文集に綴っている。

 〘死によって考える事は停止し、魂は消滅する。ただ、肉体のみが元素に分解し、再び、土や草や動物の一部に復活する。私はこの慰霊行に加えていただく迄、ずっとそう考えてきた。乾き切ったこの考えに到達する迄には、私なりの苦しみがあった。この考えの内にあっては、お経も墓標も、虚しいものであった。けれど、ビルマヘ入って二回目の夜、その考を覆す不思議な事が、私におこった。私は父の顔も声も知らない。今迄に形ある父の夢を見た事がなかった。そんな父が、私のベッドのすぐ側に立っていた。真っ暗な部屋で、それは影であった。やはり顔も声もなかった。けれど目覚める瞬間迄、私は話し会っていた様な感覚がした。それは確かに父であった。気がつくと私は、悲しい訳でも、嬉しい訳でもないのに、涙がハラハラとこぼれ、堪えてもなお激しく溢れた。堪えられなくなって、声をあげて泣き乍ら、松田さんのベッドに潜り込んだ。まだ四時頃ではあったが、松田さんの誘って下さるままに、真っ暗なインヤレイクホテルの庭に出た。早朝の冷気が熱かった頬にこころよく、名の知らぬ鳥の羽撃きと、カラスの声が響き、父の感覚と松田さんの思い遣りの中で、私は長い開、忘れきっていた感動する心を取り戻していた。

 その日の、タモエ日本人墓地は、南国とは思えない草々とした冷たさが流れていた。ビルマの竪琴、そして読経、法要の間中、私は

父と話し会っていた。母と二人だけの佗しい生活、長い年月、子の帰りを待ち続ける祖母のこと、日本ではいくら呼んでみても、虚しく消える父への語らいが、この地では、受け止められる思いがした。

 父しあらは 結ばれし恋も今はなく

     異国の墓に そを告げに来し

 サガインヒルの帰りに私は再び父を見た。老師様の衣と同じ色の、光のカーテンの中に、透きとおるような人が、楽しそうに笑っていた。慰霊行も終りに近い午後のことであった〙

帰国後、お母さんには協会の手伝いをして頂き、お父さんは結婚をきめた 戦死されたお父さんに彼女を頼まれたような気がして、義父の霊に約束した。帰国後の翌年の一九七四年十二月八日、太平洋戦争勃発の記念日であり、お釈迦さまのお悟りになった成道会の日でもあるその日に、無文老師はじめビルマへ一緒した多くの人々のもとで、私達の門出を祝っていただいた。

  エピローグ

 戦没者の遺族も次第に亡くなって、もと六百人以上居られた会員も今は百名ばかりになったが、私は前専務理事のダルマ寺佐野大義和尚の跡をついで、現会長河野太通老師のもとで遺族の気持ちを汲み、創始者の山田無文老師の慰霊団発足の心である、戦争を阻止するために役立ちたいと願って会を支えています。

 

上記は、協会専務理事の青木正道和尚さま(浄土宗 京都勝円寺住職)の手記であります。